マウンティングされたり残業しまくったり、それでもなぜか笑ってる
最近、作り笑いが本当に上手くなりました。社会人になって1年と少し経つんだから、嘘も上手くなりますな。
ご無沙汰しています。
信頼していたはずの先輩に「みわちゃんは彼氏いなくて仕事ばっかりでかわいそうね(わたしはいるけど)」的なマウンティングをされたり
「なんで忙しいの?」と仕事をばしばし振ってくる張本人に言われたり
いやなことばかり続いて「仕事行きたくない」と家で泣いて、家族に心配をかけたり。
それでも、ずっとずっと怖くて仕方なくて一言も言い返せなかった人に、気がついたら「no」が言えていたり。
そして、あっという間に面と向かって意見が言えるようになっていたり。これには自分でもびっくり。
そんな感じで、しょっちゅう11時退社とかしていたら、間があいてしまいました。言い訳おしまい。
さて、話はかわりますが、
ゴールデンウィーク直前、無理矢理有給をねじこんで、
母とふたり北陸の方に遊びに行って、その帰りの新幹線のこと。
今後の身の振り方(!)をどうしようか悩んでいたら、母が何かを察したように「このままいったらパートのおばさんになっちゃうよって、もっとちゃんと教えてあげればよかったね」と後悔をし始めた。
すごいダイレクトな後悔。
そんなこと、気づいてるけど、素敵な国家資格を持っている友人もたくさんいるけれど、たまに羨ましいと思うけれど、
その道を選ばなかったのはなぜか。
誤解を恐れずに言えば、私にとっては楽しくなさそうだったから。
(超失礼じゃん!周りの優秀な友達よ、ここで読むのをやめないで...!!)
甘えだとじゅうぶんわかっているけれど、わたしは努力をし続けるのがあまり得意ではない。
「毎日10問だけ」とか、「1日3分」とか、続いた試しがない。
それがいかに中途半端でいかにみっともないか何度も気づいたし、何度も叱られもした。これができたらもっともっと上にいけたこともあったような気がする。
これを正直に告白するのはある意味、自分の見栄っ張りな部分を認めて、見栄の甲冑を脱ぐということでもある。
さわりをつかむのが割と早くて、極める前に飽きてしまうのだ、何事も。
ここまで自分のことがわかっていたら、今更「1日×時間勉強して、◯◯の資格をとって転職する!」と意気込んでも結果は察しがつく。
(まだ夢中になるものに出会ってない
から、という言い訳だけは残させて)
でも、不安だ。とっても不安だ。
今の仕事でいいのかも、結婚するかもしないかも。結婚したらしたで、仕事を続けるのかも。独身のまま気づいたら仕事に人生捧げる可能性も、、ある。
じゃあ何が私にとってハッピーなことは何か。
なるべく多く笑うこと。
苦笑いや作為的な微笑みではなく、心から笑うこと。
付き合いで笑っている時は(これは付き合い)とどこかで思うこと。
だったらなるべく自分の気持ちいいように暮らそう。
ここまで来てしまったんだから、学生時代に時間がたっぷりあったのにそうしなかったんだから。
だったら、好きなこと、気持ちのいいことを、ちゃんと形に残そう。
好きなら勝手に続くのだから。
一番いいのは、こんな風に悩んだり、正当化したりしないで、きちんと歩むことだったけどね。笑
労働は善でも悪でもない (1年働いてわかったこと、多いような少ないような)
仕事をしてると、私が内勤ばっかりだからかもしれないけれど、「一生こんな感じか」という「とんでも閉塞感」がやってくるときがある。
天気いいじゃん、外に出してくれ。
嵐なのに会社に向かわなきゃいけないなんて。
仕事なんて悪だ。
みんなで遊んで暮らそう。
って気持ちになる。
私を会社に縛って、気持ちを硬直させているのはどこのどいつだ。
1)縛っているのは他人の言うこと。
「お前のやってることは効率が悪い」
「○○さんの味方をしてると会社で立場失うよ」
「いつもネイルかわいくしてるね、お金かからない?」
「残業してるから偉いってもんでもないよね」
「質問する前によく考えろって言っただろ。本当に考えた?」
職場にいる他人はほぼ全員もちろん仕事の先輩だ。人生の先輩でもある。
バカにしちゃいけない。頭から嫌うとややこしくなる。でも鵜呑みにしてもいけない。
同じ仕事をしていても、何をプレッシャーと思い、何を喜びや憂鬱に思うかは、生い立ちもこれまでの体験も違うから、その先輩と全く同じようには感じられない。その先輩と同じように自分は育たない。
職場環境に対する、客観的な目を忘れない。
2)縛っているのは自分自身。
「次の仕事に繋がってなきゃいけない(大した経験にならなそうだから適当にやっちゃお)」
「一度できなかったことは次は完璧にできないといけない(今回も1個失敗しちゃった)」
案外、さっきやったことの行程の一部くらいは、次に役立つ。例えば、さっきエレベーターホールで話したおじさんが勝手に好感抱いてくれて、話をきいてみたら上司の大先輩だったり。電話の取次が間違えなくできたり。
あと、1年目が1回失敗したからって、会社は潰れない。
(そんなんで潰れるリスクがあるなら、新人は雇わない。)
だから大丈夫。考えた痕跡があれば、1度目はセーフ。
何が悪かったのか、どうしたら今より良くなるのか。
何を不満に思い、何に失敗しやすく、どうすると気持ち良く立ち回れるか。封じておくところはどこか。
商売に対して、自分に対して、客観的な目を忘れない。
労働は悪だ、と思う時。
労働は善だ、と思う時。
前者は、それそのものの辛さ、つまり量の多さや、プレッシャーや、気分に関係ないハプニングを恨んでいる。
後者は、それがもたらす達成感や、お金や、人とのつながりを嬉しく思っている。
内容そのものは、楽しいものじゃないことのほうが今のところ多い。
しかし、過程や結果が、時に思いがけないものを運んでくれる。
善か悪かは、同じフィールドに乗っていないから決められない。
善でも悪でもない。
か、善でも悪でもある。
だから、サークルみたいに常にハイでもいられないし、勉強みたいに、ある程度自分のペースで思い通りににもならない。
こうやって噛み砕けていると、もうちょっとできそう、と落ち着いて一呼吸できる。
それでもダメなら、なるべくはやく帰る。
で、自分の好きなことをする。
仕事の時間以外に、仕事と自分を見つめすぎない。横道にそれて、ちょっとだけ遊ぶ。
これ、案外重要。1年経っても、全然できない。
さて、年度末ですな。
ちょっとくらいきれいごとのほうが、弱っているときには沁みるかもしれない
職場に若干、モラハラっぽい人が、いるんですけどね。
先日、とある飲み会で、「お前がいなくても仕事はまわる」と罵倒されたり(じゃああなた全部やってください!)、職場の人間関係のあることないこと言われて周りの人にフォロー入れたり(それを外部の人に話すのはおかしいでしょ!!)、終電なくなるまで引き連れられたり、お前が学歴高い高飛車キャラでいけとか(絶対いや!!!)まーいろいろ大変だったわけです。
で、その日実は37度の微熱があって。
やばいなあ、と思って次の日起きたら、熱上がってて、さすがに会社休んだんですけど。
家で寝てても、その人に言われた言葉が、頭の中をぐるぐるぐるぐる。
もちろん悪夢しか見ません。
「俺が連れまわしたと思われるからな、お前明日絶対会社こいよ」
とも言われたんですけど、それがプレッシャーとなって、寝ても寝ても、熱下がらず。
翌日は這うように会社に行って、存在感を消しながら仕事するんですけど、仕事しながら、こんなこと思ってしまう訳です。
まあ、私いなくても、仕事まわるかもしれないよねー…
こんなにしょっちゅう熱出すのおかしいよねー、職場の人に悪いよねー…(消化した有給の9割近くが体調不良)
っていうかさっきからこの仕事に何分かかってんだろー、ああ、デスク最近きたないなあ…
きれいにしたいけど、時間ないしなー…
いつもより残ればきれいにできるけど、、そんな元気ないしなあ…
もーなんか仕事作業量多いな、、
やめたいなー。。。
(以下無限ループ)
週の後半は、涙が出そうになってトイレ駆け込んだりしていて。
金曜の夕方に明らかに熱が上がったので、早退を決め込んで、病院へ行きました。
うれしさのあまり、帰りに花屋によって一番小さいブーケを買ったのは秘密です。
耐えられなくなって、今週その飲み会に始まって自分のメンタルがここまで落ち込んだことを、大切な友に話しました。
彼女は私とは全く違う業界で頑張ってるんですけど、
「自分がいなくてもいいだなんて思わないで、少なくともあなたは私にとっても、あなたの家族にとっても、代わりのいない、大事な大事な存在だから、それを忘れないで」
って、言ってくれて。
メールだったんですけど、私画面見つめながら、わあわあ泣きました。
こういうやさしい言葉って、文字にすると余計になんですけど、ちょっときれいごとっぽいじゃないですか。
普段、健康的な心と体の時は、「そんなの当たり前じゃん」って思うことだったりもする。
だけど、ちょっと心がやばいときって、水が飲めていない状態に似ている。
喉が渇いてる健康な人は、水道捻るなり、お茶を買うなり沸かすなり、さっさと造作なくできると思うんですけど。
体ががったがたの時って、水道まで行くのも一苦労だから、余計渇いてしまう。
だから、お水をベッドサイドまで持ってきてもらえると、とってもとっても嬉しい。
普段何気なく使っている言葉、普段何気なく飲む水。
こうやって気づく、その似たところ、ありがたさ。
ああ、ありがたいなあ、生かされているなあ。
しみじみ噛みしめた金曜の夜でした。
ちなみに、私のバイブルが何冊かあって、
そのうちの1冊をくれたのもまた彼女なんですけど、
『PRESENT 世界で1番大切なことの見つけかた』
http://booklog.jp/item/1/4840149089
この本は読むときの心理状況で、かなり違う表情を見せてくれる。
ここに書いてある言葉も、健康な時には「ああ、そうだよね」で終わるものも多いけれど、
心が渇いているとき、ぐんぐん沁みてきます。
ありがとう。
「ハーフ還暦」に思うこと
なんじゃそりゃあ。
還暦は60歳で、ハーフだからその半分で、30歳…。
はい、独身女は30歳という言葉にとかく敏感です。
「アラサー」「30歳からの基礎化粧品」、女子同士の会話に登場する「30までに結婚したい」「30までに子供ほしい」などなど、とにかく「お前もう若くないんだぞ」「若い女としてキャーキャー言ってられんぞ」「可愛さだけで通用せんぞ」「ていうか結婚まだなのか」と、脅しをかけてくる「30歳」という言葉。
あーなんか、頭痛くなってきた…。
そんな、避けては通れないがいささか憂鬱な門を、ギラギラに塗りたくって、「あなたの人生はここから始まるのよ!さあ!これからなのよ!」と景気よくやるイベントが、「ハーフ還暦」らしい。
少し前になるが、3月20日発行の日経MJで取り上げられていたのだが、その内容はこのようなものである。
港区の一軒家の一室で、「30」とかたどったバルーンで部屋を飾り、肩を出したドレスを着た30歳の女性たちが、シャンパンを飲みながら、これからの人生を祝福する。「平子理沙ちゃんみたいになりたい」「30歳になるのが怖かったけれど、これからも仕事やプライベートでどんどん輝きたい」…。前向きな女性像が、そこには描かれていた。
記事を一通り読み終わったときの感覚が、何かに似ている、と思った。
あれだ、美魔女を初めて知ったときだ。
テレビなどで取り沙汰され、今や多くの人が知っている「美魔女」という言葉。
見目麗しいお姉さまが、実は中学生のママだったり、50歳をゆうに超えていたり。彼女たちの美にかける思いや努力やお金が、時に狂気じみているように見えたのを、面白がって、でもどこかで「そこまでしなくても…」と見ていた、私もそのひとりだった。
そう、心に『歳相応』を掲げているのだ。こういう、「年齢に抗う行為」に違和感を覚えたとき。
だけど、私だってあっという間に30歳になってしまう。
そんな「まだ若いし~」とか言っていられるほど、私も馬鹿じゃない、少なくとも馬鹿じゃないぶっている。
というわけで、もう一度その記事を読み直してみた。そして思い出した。
ホテル女子会とか、なんだかこそばゆいけれど、お洒落をしてみんなで集まるのは確かに楽しい。テンションがあがる。そう、私だって女の子だもん。
ネイルだって、すぐ替えに行かなきゃいけないけれど、テンション上がる。指先がかわいいとうれしい。カクテルだって、かわいい色だと、なんかもじもじしちゃうけど、あ、かわいいと言えなくても、(かわいい)と思っている。テンション、あがる。
じゃあ、テンションが上がるとどういいのか。なんだか、もう少し頑張れる気がするのである。
自分に少しのお金をかけること。節目やきっかけをあえてつくること。
それだけで、あー自分って大切なんだよなあ、こんな風に変わったよなあ、と気づく。
自分に少しだけ目が向くことは、ちょっとだけ祈りに似ている。
祈りに似ている、思ったら、SNSに突然登場して、無邪気に人を傷つける華やかなイベントでさえも、ちょっとだけ許せそうな気がした。
「ご飯をつくるのが面倒くさい」
母は食事を作ることが好きだ。
パンの講師の資格をとり、家族の朝食のパンはここしばらくお店では買っていない。
水が温めば野菜の種を撒き、初夏には梅仕事をし、真夏にはできた梅シロップを大切そうにサイダーで割る。秋にはジャムを煮始め、栗おこわを拵え、秋深まり紅玉の季節になれば、待ってましたとばかりにルビー色のジャムと、コンポートを大量に拵える。親戚の集まりにはじっくりつけたフルーツたっぷりのフルーツケーキを当たり前のように持っていき、立春前の味噌を仕込む。春の足音がする頃には、甘夏をどっさりむいて、オレンジピールやマーマレードを作る。
なのに、母は時折、「食事をつくるのがつまらない、飽きて何を作ればいいかわからない」と口にする。
私はちっとも母に頭が上がらないのに。私は9時から7時頃まで、会社に行ってるだけなのに。
おふくろの味は何か、と聞かれたとき、私はすんなり出ない。
朝食に出るたびその食感にうっとりするプルマンブレッドも、中華風の鯛の前菜も、豆どっさりの挽肉カレーも、蕪と塩昆布のサラダも、手羽元をこっくりと煮たものも。全部全部大好きなのに、いや大好きだからこそ、これが好き、これさえあれば、が、決められない。
母の作る食事には押しつけがましさがない。ドヤ顔しない。
なのに、ドヤ顔をしなさ過ぎて、あまりにも美味しいそのことすら、それが家の者にとっては当たり前すぎてしまうのである。
悲しいかな、体育会育ちの父は、食事は量ばかりの人なので、何かの拍子に口にしてしまった「食えればいい」という言葉で母を傷つけたことがある。
「料理」と「炊事」は似て非なる。
料理は、「ご趣味は」と聞かれて答えられるもの。美味しさと、場合によってはその美しさに主眼すらおかれるもの。
炊事は、もっともっと日常に近い。「ある材料」「予算」「かけられる時間」「人数」など、あらゆる条件を考慮して、どうにかするもの。
母の「食事を作る」という行為は、炊事かつ、料理だ。
あるものでやりくりしながら、「適当なのよ」といいながら、絶対に美味しい「料理」を作る。しかし、「今日は美味しくできた」とか、自分で絶対に言わないから、「炊事」に見えてしまう。
まったくすごい仕事人だ。
「飽きた、つまらない」とたまにこぼしながら、今日は家で夕飯食べるから、と私がいうと、少しだけ嬉しそうな顔をする母。
自分が食べることと誰かを食べさせることが、重なれば重なるほど、「食べる」行為は自分に近く、存在は重くなる。その存在の責任を受け入れたのが炊事、責任をするりと交わしながら楽しむこともできるのが料理。
責任を感じながら、なんだかんだ楽しいと、少しでも感じること。
家庭というフィールドだけでなく、何にだって通用する姿勢なのだと、台所に立つ母を見て思う。社会人2年目の足音がきこえる。
OLのひとり飯
これからなに食べよう。
ああ、体ばっきばきだ...
思い立って、何度かお世話になっている整体に電話すると、運よく今日の夜の最後の時間が空いているという。
予約をして、少しだけ残業をして、予約の時刻まであと1時間とちょっと。整体のお店まで30分かからない。私に与えられた夕ご飯の時間、45分。有楽町なう。
うーん、微妙だ...
牛丼・ラーメンで済ませるには長すぎる、話題のお店に行くには短すぎる、女性のひとりにちょうど良さそうな定食屋さんはどこにあるのか知らない。
っていうか、ひとりでいける話題のお店ってどこだ。
よく「有楽町 ひとりごはん」とかで検索すると出てくるまとめサイトに載っているとこをくまなく見てるうちに時間がなくなってしまうし、
何より今食べたいのは「夜ご飯」で、そう、「ご飯」であってスタバとかパン屋さんとかで済ませたくない。まあそこらへんのパスタでもいいけど、この時間のプロントあたりって意外と飲んでる人ばっかりでひとりは目立ちそう。
しかも私どう見ても20代女性で、出で立ちが完全に内勤OLなんだよなあ。男だったらこういう時楽な気がするよなあ。
うーむ。
これからなに食べよう。
実家暮らしの私が、「一人暮らしはやっぱり嫌だな」と思うのは、なんとも贅沢かな、こんな時である。
そして、「ぼっち力」を試されている気がして落ち着かなくなる。
「ひとりで食べる」とはどういうことか。
仕事や予定の合間か、自分であえて見繕った時間なのか、
外食なのか、家なのか、
時間は長いのか短いのか。
仕事が忙しくて、デスクでパソコンを見ながらそそくさと「詰め込む」お昼。
帰り道、どうしてもお腹が空いて、家まで我慢できなくて、待ち時間も面倒臭くて、ファーストフードで「済ませる」夕ご飯。
給料日前で、家でじっとしていてもお腹が空くから、ご飯と納豆とか、職場でもらったお菓子とかで「しのぐ」。
それぞれ事情が違えど、空腹になったお腹を満たすという行為がひとりになったとき、こんな風に寂しくきこえるのはなぜだろう。
なぜ、恥ずかしいように感じてしまうんだろう。
そして、ひとりで食べるとき、妙に食べることの意味を、「食べるという行為」以上に与えたくなってしまうのはなぜだろう。
ひとりで食べることに、過剰な意味はない、と言ったのは料理エッセイで有名な平松洋子さんだ。
『夜中にジャムを煮る』の中の「ひとりで食べる、誰かと食べる」で、平松さんは、
「ひとりで食べるということに、ことさらな意味を持たせるほうが面倒なのだ。いちいち一食ずつ楽しむ態勢にもっていくというのも、うっとうしい。空腹だけはさらりと避けておく、そのための知恵を繰り出すわけです。」
こう言っている。
食事をずっと見つめてきた人がこういうのである。
なんかセンセーショナル。
「ぼっちめし」という言葉は、私が大学生だった4、5年前に頻繁に使われていた言葉だ。
「ひとりぼっち」で「飯を食べる」こと。人が多い大学のキャンパスでぼっちめしを決め込んでいると、「友達が少ないやつ」「人と関わるのが苦手なやつ」とレッテルを貼られるらしい。それが怖くて、トイレでご飯を食べる学生もいたとかいなかったとか。まあ、少し前の話ではあるが。
ひとりぼっちのご飯は侘しい。やっぱりみんながそう思ってしまうのは、誰かと食べる方が楽しいとみんな知っているからだ。
美味しい、この味はいまいち、日々の他愛ない話題。すっかり心許せる大切な人とならなおさら、温かい時間になる。
まっすぐ家に帰るとき、食事を作って待ってくれている母を思う。タイミングを合わせて帰ってくる家族を思う。
でももし、ひとりで食べるなら。せっかくひとりなら、と思って、元気があるなら、食べたいものを作る。イライラしてたまらないなら、もりもり、やみつきになったナッツをかじってもいい。食べたくないなら、適当にやればいい。
「どうせ」ひとり、より、「せっかく」のひとりの自由を、無理なく楽しむこと。または適当にやり過ごすこと。
そして、誰かと食べられる喜びと、時々やってくる煩わしさとを思い出すこと。
ひとりの食事に、「食べること」「空腹だけはかわすこと」以外に、重すぎない意味づけをするなら、こんな感じだろうか。
ひとりで挑戦した激辛カレーで痺れた内臓と、整体で楽になった骨格の対比に違和感を覚えながら、ちょっとだけ考えた夜だった。
知っているようで知らないあの人とのこと
知っているようで、実はあまり知らないこと。
全く知らないことならまだいいのだが、こいつはタチが悪いと最近つくづく思う。
例えば、入社ほやほやの時の、複数対複数の名刺交換。誰からもらうのか、誰から誰へ紹介するのか...とあわあわする。けれど、これは答えがあるからまあいい。勉強になりました失礼しました次からしません、で、まあなんとかなる。
例えば、サークルの3、4個上の、名前はよく知っていても、あまり遊んだことのない先輩。そんな先輩と部室で2人になってしまったとき。迂闊に他の部員の話もできない。誰と付き合っていたか、誰と仲が悪いか、そういえば知らないのだ。地雷は踏みたくない。でもつまらないやつだと思われたくもないし、でも、でも...(と思ってるうちにいっそのこと「お前今彼氏いるの?」「いまっせーん!」「あっはっは!」みたいに話かけてくれないかな...)この間、沈黙。
後者の例は、似たような経験があるでしょう。
ちょっと出だしから脱線した感じはあるけれど、要するに、今回は知ってそうでほぼ知らない人との関係についてのお話。
最近そのいい例を見つけました、これです。
【そこまで仲良くない同性(特に女子同士)の会社の同期】。
さてここで前提を。私の勤める会社は、従業員が1,000人くらいの、世間様から見ればまあまあの会社である。職種は総合職と地域特定職の2つに分かれており、総合職は9割以上が男性、地域特定職は全員女性である。まあ、総合職と一般職と考えてもらったほうがわかりやすいだろう。 このシステムの見所のひとつは、お昼休みにやってくる。12時のチャイムが鳴ると、お財布を持った社内履のままの地域特定職達がどこかでランチをテイクアウトし、空いている会議室やら、執務室横のちょっとしたスペースやらに集まって、昼休みの小一時間をめいっぱい、おしゃべりに費やす。特に見ごたえがある場所が、「ランチスペース」だ。いくつものグループがそこでおしゃべりに華を咲かせており、よく言えば、夕方に森からばっと出てきた鳥の山のように騒がしい。
一方総合職は、昼休みの時間の中頃になってから連れ立って出かけるか、デスク飯。業務時間中に大きな声で電話をしている総合職の声は、昼休みには聞こえなくなる。
さて、私もランチスペースの常連である。
だいたい一緒に食べる人は同じ部に配属になっている同期なのだが、ランチスペースへ行けば、よく他の同期の女の子にも鉢合わせる。こうなると、まあ同期だしってことで、一緒に食べる雰囲気になる。
うーん、困った。 話題に困るのである。大体は、週末(彼氏に)どこに連れてってもらった、合コンしたらこうだった、髪型変えたね、新しいネイルがかわいいね、とか、そんな類だからだ。そういう話題は週末の変化を受けて生じるものなので、週明け限定だ。
週も半ばになると、大体は仕事の話か、昨日のドラマの話か、平日の飲み会の話になる。同期だから、さっき例に挙げたサークルの先輩みたいに、「先輩だから」と気を使う必要もないのに、もぞもぞと話題を探してしまう。そもそもその行為が煩わしいのだけれど、最近さー、と誰かが切り出す。
大体は「仕事中、次の旅行のことばっかり考えちゃう」とか当たり障りないことを言って、旅行の話になったりするのだが、こうならない場合がある。
わたし「選ばれちゃった」自慢が始まったときである。
「新しい仕事任されちゃった~最近ひまそうにしてたからかな~」
「君のお酌は断れないな~ってまた言われちゃったー。あああ飲み会面倒くさいけど、次もきっと呼ばれちゃうな~」
「今度うちの部新人来るんだけど、私教育係になるかも~適任が他にいないらしくて」
「偉い人の秘書の補佐やるみたいで」
むむむ。
残念ながら同期の何人かは忙しい部署へ配属されており、月末の締めの時は髪を振り乱して働いている。終電ぎりぎりという同期もいる。かたや、「暇だわ~午後なにしよ~」「今日も定時退社だわ~ジムいくか~」みたいな同期もいる。同じ職種でもこれくらい差がある。それは仕方のないことなので、頑張ろうね、いやお前は働けあっはっはで終わる。ただ、
「今度うちの部新人来るんだけど、私教育係になるかも~適任が他にいないらしくて」
「偉い人の秘書の補佐やるみたいで」
ついこの間まで?暇だわ~とぶっこいていたくせに?私選ばれちゃいました?さも信頼されているかのように??
ふう。
波だった心を落ち着けようと、私は昼休みが終わった後、イライラした原因を考えてみた。仕事しながら。いや、仕事中行ったトイレの中とかで。
・もともと、自分に自信がある子かも知れない。もしかして海外育ち?自己主張かな。
・いやでも、私が環境的にも仕事量的にもしんどい思いをしていた数ヶ月前に、「忙しい~嫌だ~」って喚いたから、お前だけが忙しいんじゃないんだぞ、むしろもっとちゃんとやってるんだぞ、っていうあてつけかも知れない。
・もしかしたら、その子の「暇だわ~」は「えーっと」みたいなもので、ただの口癖かも知れない。
・もしかしたら1年死ぬほど努力して、周囲の信頼を勝ち得たかも知れない。 ・そもそも、私は自分が忙しい、人事からも1年目らしからぬ働きですね、と褒められている(話の都合上、ということにしておいて)のに、その子の方が先のステップに行ってるように見えることを、嫉妬しているんじゃないか?
・いやそもそも彼女は暇そうだから新しい仕事を割り振られたんじゃないか?
そう、Perhaps の連続なのだ。
つまり私はその子のことも、自分の仕事が実際その程度評価されているのかも、というよりもはや自分がどこまで出来て、そしてどうなりたいのかも、実はよく知らない。
知らないから、言葉の裏を読んでみたり、勘ぐってみたり、複雑に考えてみたりする。そうしてどつぼにはまって、ひとりでイラついて、小さなことなのに...とイラついた自分を責めてしまうことだって、たまにある。
ならば、実はあまりよく知らない人の言葉は、文字通りに受け取って、あとはさっぱり忘れてしまう方が、都合がいい。
なんだかもやっとさせられる言葉には、言葉を発した人の人間性がつきまとう気がする。でも、その人間性は、受け取った側が勝手に作り出したもやもやではないか?よく知らないなら、よく考えない。考えてもあまりいいことはありません。ただの妄想です。
そうすれば先輩のお小言も、「できてなかったんだな、気をつけよう」という素直な気持ちで受け止められるし、よく知る家族や友人や恋人の言葉には、そのまま繊細でいればいい。
そうやって人の話を聞ければ、もう少し楽~に生きられるんですけど、ね。
読んじゃうよねえ、言葉の裏。難しいよねえ、微妙な距離感。