イライラしたときに〇〇する

違うタイプの人間も、意外と日々感じることは似ていたりする。新米OL(ただしそこまでキラキラしてない)が、イライラしてもしなくても、ライターになりたくて、あふれる野心を抑えながらつらつら書きます。

「ご飯をつくるのが面倒くさい」

母は食事を作ることが好きだ。


パンの講師の資格をとり、家族の朝食のパンはここしばらくお店では買っていない。

水が温めば野菜の種を撒き、初夏には梅仕事をし、真夏にはできた梅シロップを大切そうにサイダーで割る。秋にはジャムを煮始め、栗おこわを拵え、秋深まり紅玉の季節になれば、待ってましたとばかりにルビー色のジャムと、コンポートを大量に拵える。親戚の集まりにはじっくりつけたフルーツたっぷりのフルーツケーキを当たり前のように持っていき、立春前の味噌を仕込む。春の足音がする頃には、甘夏をどっさりむいて、オレンジピールやマーマレードを作る。


なのに、母は時折、「食事をつくるのがつまらない、飽きて何を作ればいいかわからない」と口にする。

私はちっとも母に頭が上がらないのに。私は9時から7時頃まで、会社に行ってるだけなのに。

 

おふくろの味は何か、と聞かれたとき、私はすんなり出ない。

朝食に出るたびその食感にうっとりするプルマンブレッドも、中華風の鯛の前菜も、豆どっさりの挽肉カレーも、蕪と塩昆布のサラダも、手羽元をこっくりと煮たものも。全部全部大好きなのに、いや大好きだからこそ、これが好き、これさえあれば、が、決められない。

母の作る食事には押しつけがましさがない。ドヤ顔しない。

なのに、ドヤ顔をしなさ過ぎて、あまりにも美味しいそのことすら、それが家の者にとっては当たり前すぎてしまうのである。

悲しいかな、体育会育ちの父は、食事は量ばかりの人なので、何かの拍子に口にしてしまった「食えればいい」という言葉で母を傷つけたことがある。

 

「料理」と「炊事」は似て非なる。

料理は、「ご趣味は」と聞かれて答えられるもの。美味しさと、場合によってはその美しさに主眼すらおかれるもの。

炊事は、もっともっと日常に近い。「ある材料」「予算」「かけられる時間」「人数」など、あらゆる条件を考慮して、どうにかするもの。

 

母の「食事を作る」という行為は、炊事かつ、料理だ。

あるものでやりくりしながら、「適当なのよ」といいながら、絶対に美味しい「料理」を作る。しかし、「今日は美味しくできた」とか、自分で絶対に言わないから、「炊事」に見えてしまう。

 

まったくすごい仕事人だ。


「飽きた、つまらない」とたまにこぼしながら、今日は家で夕飯食べるから、と私がいうと、少しだけ嬉しそうな顔をする母。


自分が食べることと誰かを食べさせることが、重なれば重なるほど、「食べる」行為は自分に近く、存在は重くなる。その存在の責任を受け入れたのが炊事、責任をするりと交わしながら楽しむこともできるのが料理。


責任を感じながら、なんだかんだ楽しいと、少しでも感じること。


家庭というフィールドだけでなく、何にだって通用する姿勢なのだと、台所に立つ母を見て思う。社会人2年目の足音がきこえる。