OLのひとり飯
これからなに食べよう。
ああ、体ばっきばきだ...
思い立って、何度かお世話になっている整体に電話すると、運よく今日の夜の最後の時間が空いているという。
予約をして、少しだけ残業をして、予約の時刻まであと1時間とちょっと。整体のお店まで30分かからない。私に与えられた夕ご飯の時間、45分。有楽町なう。
うーん、微妙だ...
牛丼・ラーメンで済ませるには長すぎる、話題のお店に行くには短すぎる、女性のひとりにちょうど良さそうな定食屋さんはどこにあるのか知らない。
っていうか、ひとりでいける話題のお店ってどこだ。
よく「有楽町 ひとりごはん」とかで検索すると出てくるまとめサイトに載っているとこをくまなく見てるうちに時間がなくなってしまうし、
何より今食べたいのは「夜ご飯」で、そう、「ご飯」であってスタバとかパン屋さんとかで済ませたくない。まあそこらへんのパスタでもいいけど、この時間のプロントあたりって意外と飲んでる人ばっかりでひとりは目立ちそう。
しかも私どう見ても20代女性で、出で立ちが完全に内勤OLなんだよなあ。男だったらこういう時楽な気がするよなあ。
うーむ。
これからなに食べよう。
実家暮らしの私が、「一人暮らしはやっぱり嫌だな」と思うのは、なんとも贅沢かな、こんな時である。
そして、「ぼっち力」を試されている気がして落ち着かなくなる。
「ひとりで食べる」とはどういうことか。
仕事や予定の合間か、自分であえて見繕った時間なのか、
外食なのか、家なのか、
時間は長いのか短いのか。
仕事が忙しくて、デスクでパソコンを見ながらそそくさと「詰め込む」お昼。
帰り道、どうしてもお腹が空いて、家まで我慢できなくて、待ち時間も面倒臭くて、ファーストフードで「済ませる」夕ご飯。
給料日前で、家でじっとしていてもお腹が空くから、ご飯と納豆とか、職場でもらったお菓子とかで「しのぐ」。
それぞれ事情が違えど、空腹になったお腹を満たすという行為がひとりになったとき、こんな風に寂しくきこえるのはなぜだろう。
なぜ、恥ずかしいように感じてしまうんだろう。
そして、ひとりで食べるとき、妙に食べることの意味を、「食べるという行為」以上に与えたくなってしまうのはなぜだろう。
ひとりで食べることに、過剰な意味はない、と言ったのは料理エッセイで有名な平松洋子さんだ。
『夜中にジャムを煮る』の中の「ひとりで食べる、誰かと食べる」で、平松さんは、
「ひとりで食べるということに、ことさらな意味を持たせるほうが面倒なのだ。いちいち一食ずつ楽しむ態勢にもっていくというのも、うっとうしい。空腹だけはさらりと避けておく、そのための知恵を繰り出すわけです。」
こう言っている。
食事をずっと見つめてきた人がこういうのである。
なんかセンセーショナル。
「ぼっちめし」という言葉は、私が大学生だった4、5年前に頻繁に使われていた言葉だ。
「ひとりぼっち」で「飯を食べる」こと。人が多い大学のキャンパスでぼっちめしを決め込んでいると、「友達が少ないやつ」「人と関わるのが苦手なやつ」とレッテルを貼られるらしい。それが怖くて、トイレでご飯を食べる学生もいたとかいなかったとか。まあ、少し前の話ではあるが。
ひとりぼっちのご飯は侘しい。やっぱりみんながそう思ってしまうのは、誰かと食べる方が楽しいとみんな知っているからだ。
美味しい、この味はいまいち、日々の他愛ない話題。すっかり心許せる大切な人とならなおさら、温かい時間になる。
まっすぐ家に帰るとき、食事を作って待ってくれている母を思う。タイミングを合わせて帰ってくる家族を思う。
でももし、ひとりで食べるなら。せっかくひとりなら、と思って、元気があるなら、食べたいものを作る。イライラしてたまらないなら、もりもり、やみつきになったナッツをかじってもいい。食べたくないなら、適当にやればいい。
「どうせ」ひとり、より、「せっかく」のひとりの自由を、無理なく楽しむこと。または適当にやり過ごすこと。
そして、誰かと食べられる喜びと、時々やってくる煩わしさとを思い出すこと。
ひとりの食事に、「食べること」「空腹だけはかわすこと」以外に、重すぎない意味づけをするなら、こんな感じだろうか。
ひとりで挑戦した激辛カレーで痺れた内臓と、整体で楽になった骨格の対比に違和感を覚えながら、ちょっとだけ考えた夜だった。